【薬物大会】ドーピング容認のエンハンストゲームズとは何か?
- UNREASH
- 5月27日
- 読了時間: 13分
エンハンストゲームズとは、ドーピングを容認する異色のスポーツイベントとして、スポーツ界に大きな議論を巻き起こしています。この記事では、エンハンストゲームズの全貌を明らかにし、日本のスポーツ文化における価値観との衝突、そして未来のスポーツのあり方について深く掘り下げていきます。
近年、スポーツ界に波紋を広げている「エンハンスト・ゲームズ(Enhanced Games)」は、パフォーマンス向上薬(PEDs)の使用を公に許可するという、これまでの常識を覆す新しいスポーツ大会です。この大会の登場は、「スポーツとは何か?」「人間の能力の限界とは?」といった根本的な問いを私たちに突きつけます。
目次
エンハンストゲームズの概要と特徴
エンハンストゲームズは、オーストラリアの起業家兼弁護士であるアーロン・デスーザ氏によって創設されました。

彼は、この大会を「科学の進歩を受け入れ、人間のパフォーマンスの限界を押し広げる新しい時代の競技会」と位置づけています。初回大会は2026年5月21日から24日に、米国ラスベガス・ストリップのリゾーツ・ワールドで開催される予定です。

陸上短距離走、水泳、重量挙げなどが計画されており、将来的には体操や格闘技も視野に入れています。この大会の最大の特徴は、その高額な賞金です。各競技イベントには総額50万ドルの賞金が設定され、世界記録を更新した選手には100万ドルのボーナスが約束されています。実際に、ギリシャの競泳選手クリスティアン・ゴロメエフは、50m自由形で世界記録(20.89秒)を更新し、100万ドルの賞金を獲得したと報じられました。しかし、この記録はPEDsと禁止された「スーパー・スーツ」を使用したものであり、世界水泳連盟には承認されていません。

ドーピングに関するルールと安全性
エンハンストゲームズではPEDsの使用が許可されており、ドーピング検査は行われません。ただし、無制限に何でも許容されるわけではなく、保険上の理由から米国食品医薬品局(FDA)によって承認された物質のみが許可されるとされています。コカインやヘロインなどの違法薬物は明確に禁止です。
創設者のデスーザ氏は、「選手は自分の体を自由に扱う権利がある」と主張し、「透明性、科学、選択」を重視すると述べています。彼らは、競技前の全身臨床スクリーニング(血液検査や心電図など)を義務付け、各選手を臨床監督下に置くことで安全を確保すると主張しています。しかし、科学界からはこの「医療監督」の実効性について大きな疑問が投げかけられています。PEDsの安全な使用を裏付ける信頼できるエビデンスが不足しており、特に複数のPEDsを組み合わせた場合の長期的な影響は不明です。専門家は、エンハンスト・ゲームズが「倫理的監督を欠いた、ずさんな薬物試験に似ている」と厳しく批判しています。
ドナルド・トランプ・ジュニア氏の関与
エンハンストゲームズは、PayPal共同創業者ピーター・ティール氏や、ドナルド・トランプ氏の息子であるドナルド・トランプ・ジュニア氏がパートナーを務めるベンチャーキャピタル企業「1789 Capital」からの支援を受けています。

特に、トランプ・ジュニア氏が率いる1789 Capitalは「数千万ドル」規模の資金と政治的影響力を注入していると報じられています。トランプ・ジュニア氏は、「これは卓越性、革新、そして世界舞台でのアメリカの優位性に関わるものであり、MAGA運動の全てだ」と述べて、大会への支持を表明しました。
これは、エンハンストゲームズが単なるスポーツイベントに留まらず、既存のスポーツ界の規範(WADAやIOCなど)に挑戦し、破壊するという広範な政治的・イデオロギー的声明として位置づけられていることを示唆しています。

スポーツ界の「常識」との衝突
エンハンストゲームズの登場は、世界のスポーツ界に大きな衝撃を与え、その存在意義と倫理的基盤に対して広範な批判が寄せられています。
(1)世界反ドーピング機構(WADA)および国際オリンピック委員会(IOC)からの強い非難
世界の主要なスポーツ統括団体は、エンハンストゲームズに対して強く非難しています。
世界反ドーピング機構(WADA)は、この大会を「危険かつ無責任な概念」として強く非難し、アスリートの健康と福祉が最優先事項であると強調しています。PEDsの使用がアスリートの健康を危険にさらし、長期的な副作用や死亡例さえあることを警告しています。
国際オリンピック委員会(IOC)も同様に、この大会を「フェアプレーと公正な競争の概念を破壊する」ものだと厳しく批判しています。IOCは「いかなる親も、パフォーマンス向上薬が中心的な概念であるこのような有害な形式で、自分の子供が競争するのを見たいとは思わないだろう」と述べ、オリンピックの理想と価値観に完全に反すると強調しました。
英国アンチ・ドーピング機構(UKAD)も「スポーツにパフォーマンス向上薬の居場所はない」と述べ、この大会を「モラルに反する」「ナンセンス」と一蹴しています。
これらの強い非難は、単なる規制上の意見の相違ではなく、健康、フェアプレー、品位、スポーツの精神といった根本的な価値観の問題としてエンハンスト・ゲームズを認識していることを示しています。
(2)「フェアプレー」と「スポーツの品位」への影響
伝統的なスポーツの価値観では、「フェアプレー」は、選手が自身のスキル、戦略、努力といった「内的要因」に基づいて勝利を収めることを意味します。PEDsの使用は、この原則を損ない、外部要因による不公平な優位性をもたらします。
エンハンストゲームズは、ドーピング検査をなくすことでスポーツの整合性(インテグリティ)と意味を維持するために不可欠な「ルールと境界線」を根本的に無視していると批判されています。
エンハンストゲームズで樹立された「世界記録」が伝統的な団体に認められない可能性は、スポーツにおける普遍的な競技達成の概念を損ない、異なる基準が存在する「二重の現実」を生み出します。これは「世界記録」の概念を些細なものにし、「人間の可能性」が競技の文脈で何を意味するのかについて混乱を生じさせます。
(3)科学界からの安全プロトコルへの疑問と長期的リスク
エンハンストゲームズが主張する「医療監督下でのPEDs使用」には、科学的なエビデンスが不足しており、長期的な健康リスクに関するデータも不十分であると指摘されています。アナボリックステロイドの使用は、心臓肥大、心壁の硬化、血液の濃縮を引き起こし、心臓発作のリスクを高めることが知られています。PEDsの組み合わせ使用や、新しい未承認物質の使用は、さらに予測不可能な健康問題を引き起こす可能性が高いです。
エンハンストゲームズにおける「アスリートの安全」に関する議論は、個人の自律性(「私の体、私の選択」)と、公衆衛生およびスポーツの品位に対する集団的責任との間の根本的な倫理的対立を浮き彫りにしています。
(4)若年層への影響とドーピング常態化への懸念
エンハンストゲームズの存在は、特に若いアスリートに対して「夢を追いかけるためにはドーピングが必要だ」という危険なメッセージを送る可能性があります。ドーピングが「常態化」することで、スポーツが単なるエンターテイメントや「グラディエーターショー」と化し、その教育的・社会的価値が失われるという批判も。
「禁断の果実」と人間の能力〜ドーピングの歴史的背景
ドーピングは、単に競技規則を破る行為にとどまらず、スポーツの根源的な価値観、人間の能力の定義、そして倫理的な境界線に深く関わる問題です。エンハンストゲームズが問いかける「薬物容認」の概念は、スポーツが長年にわたって培ってきた倫理的基盤に挑戦するものです。
(1)ドーピング禁止の歴史とスポーツ倫理の確立
スポーツにおける薬物使用は古くから存在しましたが、ドーピングが非倫理的と見なされるようになったのは20世紀に入ってからです。転換点となったのは1967年、国際オリンピック委員会(IOC)が特定のパフォーマンス向上物質を禁止したことです。これは、冷戦期に「アマチュアリズム」の理想が揺らぐ中で、IOCが「純粋なスポーツの精神」を維持するための「道徳的基盤」としてアンチ・ドーピングに目を向けたためです。
アンチ・ドーピング政策の歴史的進化は、「スポーツの精神」が静的なものではなく、歴史的文脈に対応して統括団体によって積極的に形成されてきたことを示しています。ドーピングが禁止される背景には、アスリートの健康保護、公正な競争の確保、そしてスポーツが社会の模範としての役割を維持するという倫理的な原則がありました。
(2)「人間の自然な能力の追求」というスポーツの根源的価値
スポーツの「本質的な価値」は、「人間の精神、身体、そして心の祝祭」であり、「献身的な努力を通じて、各個人の自然な才能を完璧に追求すること」であるとされています。これは「スポーツの精神」と呼ばれ、オリンピック主義の核心をなすものです。
ドーピングは、この「スポーツの精神」に根本的に反すると見なされています。なぜなら、それは「スキル、戦略、努力」といった「内的要因」ではなく、外部からの介入によって結果を左右しようとする行為だからです。ドーピングはまた、スポーツの評判と品位を傷つけ、努力、才能、根性といった「自然な要素」ではなく、外部からの介入が重要であるというメッセージを送ることで、「人間の主体性」を低下させるとも批判されています。
日本人感覚から見た「薬物容認」
恐らく、多くの日本人が「薬物容認」大会へ「意味不明」という感覚を抱いているのではないでしょうか?これは、日本社会に深く根ざした倫理観やスポーツ文化に由来します。日本は、国際的なアンチ・ドーピング活動において非常に積極的な役割を果たしており、その背景には独自の価値観が存在します。
(1)日本におけるアンチ・ドーピングの取り組みとJADAの役割
日本は、ドーピングとの戦いにおいて「最もコミットしている国の一つ」と広く認識されています。**日本アンチ・ドーピング機構(JADA)**は2001年に設立され、スポーツの品位とドーピングとの戦いを保護・発展させることを目的としています。JADAは、ドーピング検査の実施、教育・啓発キャンペーン、情報管理、研究推進など、多岐にわたるアンチ・ドーピング活動を展開しています。
JADAのアンチ・ドーピング規程は、世界アンチ・ドーピング規程(WADA Code)に完全に準拠しており、日本のスポーツシステムは「公正と公平を確保するスポーツへの参加」というアスリートの権利保護にコミットしています。日本政府もWADAへの資金援助を増額するなど、アンチ・ドーピング活動を強力に支援しています。
(2)日本社会におけるドーピングへの強い否定的な認識
日本社会、特に大学生を対象とした調査では、ドーピングに対して非常に強い否定的な態度が示されています。ある調査では、日本の大学生の79.1%がドーピングに対して否定的な態度を示しています。
この強い否定的な認識の背景には、日本のスポーツ文化に根ざした独自の価値観があります。JADAの規程には、「スポーツの本質的な価値は先述した『スポーツ精神』と呼ばれ、それはオリンピック主義の核心である」と明記されています。この精神は、「倫理、フェアプレー、正直さ」「健康」「パフォーマンスにおける卓越性」「人格と教育」「楽しさと喜び」「チームワーク」「献身とコミットメント」「規則と法律への尊重」「自己と他者への尊重」「勇気」「コミュニティと連帯」といった多岐にわたる価値観によって特徴づけられます。
特に重要なのは、柔道の創始者である嘉納治五郎師範の教えである「順道制勝(じゅんどうせいしょう)」の思想です。これは「勝敗に関わらず、正しい道筋に従うべきであり、たとえ正しい道筋に従って敗れたとしても、正しい道筋に反して勝つよりも価値がある」という意味を持ちます。この思想は、結果だけでなくプロセス、努力、そして倫理的な行動を重視する日本のスポーツ観を象徴しています。ドーピングは、「スポーツの精神」に根本的に反する行為であり、特に「順道制勝」の観点からは、勝利のためであっても「正しくない道」を選ぶことであり、受け入れられないとされています。
(3)欧米との価値観の差異
一方で欧米の一部では、ドーピングの規制緩和や合法化を主張する声も存在し、「PEDsは規制され安全に利用できる」という議論や、「ドーピングが蔓延しているため、禁止する方が不公平だ」という意見もあります。エンハンストゲームズの創設者の「私の体、私の選択」という主張は、欧米の個人主義的な価値観に根ざしたものです。
しかし日本では、スポーツは単なる競技以上の、人格形成や社会規範の涵養の場と捉えられてきました。ドーピングは、個人の健康を害するだけでなく、スポーツが社会に与える模範としての役割、特に若年層への悪影響が強く懸念されます。

結論:エンハンストゲームズが問いかけるもの
ドナルド・トランプ・ジュニア氏が投資する「エンハンストゲームズ」は、PEDsの使用を公に容認する形で2026年にラスベガスで初開催される計画であり、国際スポーツ界や科学界から深刻な批判に直面しています。
WADAやIOCをはじめとする主要なスポーツ団体は、エンハンストゲームズを「危険で無責任」「フェアプレーの破壊」「アスリートの健康を危険にさらす」ものとして強く非難しています。科学界からも、PEDsの安全な使用を裏付ける確固たるエビデンスの欠如、特に長期的な健康リスクや複数物質の併用による影響の不明確さが指摘され、その安全プロトコルは「倫理的監督を欠いたずさんな薬物試験」に例えられています。
特に日本においては、「薬物はだめ絶対」という強い倫理観と、「スポーツマンシップ」や「順道制勝」に代表される、努力とフェアプレーを重んじる独自の文化が深く根付いており、エンハンストゲームズの概念は根本的に受け入れがたいものとして認識されています。直近で言えば、朝倉未来と平本蓮の試合で、平本蓮がドーピングを使用していたことが問題となり、多くの批判を浴びました。
この大会は、その論争的な性質にもかかわらず、現在のアンチ・ドーピングシステムの有効性について、批判的な再評価を促している側面もあります。エンハンストゲームズの創設者も「科学によってスポーツを再発明する」と主張し、「革新を阻害してきた世界のスポーツを統括するエリートたち」に挑戦しています。これは、エンハンストゲームズが、その挑発的な性質によって、既存のシステムにおける認識されている弱点や偽善を皮肉にも浮き彫りにしていることを示唆しています。エンハンストゲームズは、現代スポーツが直面する根源的な問いを投げかけています。
「スポーツとは何か?」
「人間の可能性の追求とは、どこまでが『自然な努力』の範疇なのか?」
「フェアプレーの定義は時代と共に変化するのか?」
この大会は、アスリートの身体の自由という個人主義的価値と、スポーツの健全性、倫理、若年層への模範といった社会全体としての価値との間の緊張関係を浮き彫りにしています。「禁断の果実」とも表現されるPEDsの容認は、記録の更新という側面では魅力的かもしれませんが、それがスポーツの根源的な価値、すなわち「自己の限界に挑戦し、努力を通じて真の卓越性を追求する」という精神をどこまで維持できるのか、という倫理的ジレンマを提示しています。
さらに、エンハンストゲームズは、人間の生物学的限界の潜在的な商業化と商品化を表しており、アスリートの達成を自然な人間の努力ではなく、製薬およびバイオテクノロジーの進歩によって推進されるスペクタクルへと変貌させています。これはスポーツの商業的な未来と、人間の強化における倫理的境界線に深遠な影響を与えるものです。
今後、この大会がどのように展開するか、そしてそれが伝統的なスポーツ界にどのような影響を与えるか、引き続き注視する必要があります。特に、ドーピングに対する厳格な姿勢を貫く日本が、この新たな動きに対してどのようなメッセージを発し続けるか、その動向は国際的なアンチ・ドーピングの議論において重要な意味を持つでしょう。
最終的に、エンハンストゲームズは、単なる新しいスポーツイベントではなく、スポーツが社会において果たすべき役割、その倫理的境界線、そして人間の能力の定義そのものについて、私たちに再考を促す試金石となるでしょう。
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