【人類の問い】正義とは?哲学・法の視点と賢者が語る本質
- Renta
- 4 日前
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裁判所の屋上に立つ正義の女神像(テミス)。天秤は公平さ、剣は権威と決断を象徴する。古来より、正義とは何か、人々はその本質を問い続けてきた。正義は視点によって姿を変えるのだろうか?それとも普遍的な理念が存在するのか?悟りをひらいた賢者のような視点で、この問いを哲学と法学の観点から探求してみよう。
「正義とは勝者が作り上げるもの」「勝った者が正義」この世はしばし強者理論が蔓延っているが、この旅路で共に考え、最後に一つの答えの輪郭を浮かび上がらせてみたい。

目次
哲学における正義観の変遷
哲学者たちは長い歴史の中で正義を様々に定義してきた。古代ギリシアのソクラテスとプラトンは、正義=調和という考え方を示した。彼らにとって「正しい国家」とは、統治者・防衛者・生産者の各身分がそれぞれの務めを果たし調和した国家であり、「正しい個人」とは理性・意志・欲望が調和した人間のことだった。プラトンは人間の魂を理性・勇気・欲望の三部分に分け、それぞれ知恵・勇気・節制という徳によって調和させることが正義と考えた。つまりプラトンにとって正義とは魂や国家における調和であり、徳の中でも最高位に位置づけられる徳とされた。

その弟子アリストテレスは、プラトンよりも現実主義的な視点から正義を考察した。アリストテレスによれば正義には全体的正義(社会の法や徳に従うこと)と部分的正義(個々の場面での公正な配分や是正)がある。彼は部分的正義として、利益や富などを各人の功績に比例して配分する配分的正義と、不当な不利益を受けた人に補償を行う調整的正義という区分を示した。このように正義を具体的な公平さとして捉え、**「各人にふさわしい分配」と「不公平の是正」**を重視したのがアリストテレスの正義観である。
時代が下り、近代になると正義の概念はさらに多様な思想に展開した。ベンサムに代表される功利主義では、「正しい行為」とは人々の幸福を最大化する行為だと定義される。最大多数の最大幸福こそが善であり、これを増進することが正義だと考えたのである。しかし功利主義への批判として、ジョン・ロールズら現代の哲学者が登場する。ロールズは功利主義では少数者の権利が犠牲にされ多様性も損なわれると指摘し、社会の基本的な財貨が公正に分配される状態を理想とする正義論を展開した。彼は無知のヴェールに覆われた「原初状態」を想定し、そこに置かれた人々が合意せざるを得ない原理として**「平等な基本的自由の原理」と「格差是正の原理」**(いわゆる正義の二原理)を提示したとされる。
ロールズ以降もノージックやセン、サンデルなど多くの思想家が正義論を論じ、正義は一つではなく多面的であることが示されてきた。このように哲学における正義観は、調和・配分的公平・最大幸福・公平な機会など、時代と立場によって様々な姿を見せている。

法律と正義:司法の視点と現実
哲学が理想を語る一方で、我々の社会で具体的に「正義」を扱うシステムは法である。法律学の本質は正義の実現にあると言われる。法は「共生のための相互尊重のルール」であり、法律家は自由・平等・公平・公正といった価値を重んじ、不正を是正するとされる。したがって法の世界では、手続的にも内容的にも正義であること(適正手続と衡平性)が追求される。裁判所に彫られた女神テミスの像が象徴するように、法は目隠し(偏見の排除)と天秤(公平な比較衡量)、そして剣(社会秩序の執行力)を備えて正義を実現しようとしている。
もっとも、法律による正義の実現は理想通りにはいかない難しさも孕んでいる。法律家は杓子定規に条文を適用するだけではなく、個々の事件に応じて柔軟かつ創造的にルールを解釈し問題解決に当たっている。それでも、「法の正義」と社会一般の道徳的な正義感が衝突することもある。
例えば、かつて合法であった奴隷制や人種隔離政策は現在では明確に“不正義”と認識されている。法は社会の勝者(多数派や権力者)の作ったルールでもあるため、時に弱者や少数派に不利な内容を含みうるのだ。また正義という言葉自体が抽象的で、法の場で安易に持ち出せば各人の主観で濫用される危険も指摘されている。
それでも法治国家においては、「法に則った裁きこそ正義」という基本的な価値観が共有されている。裁判官も検察官も弁護士も、法の手続に従って紛争を解決し、犯罪には適正な刑罰を科すことで社会的正義を実現しようと日々努めている。このように司法における正義は、「予め定められた公正なルールに基づき、全ての人を平等に扱うこと」であり、現代ではそれが共生社会の作法としても不可欠だと考えられている。
だが現実は醜い。正義を守るはずの警察や弁護士、裁判官さえも、時に汚職や買収・賄賂といった不正義に染まることがある。彼らも人間である以上、人間の判断の域を出ないのが実情なのである。

正義か復讐か:私刑の誘惑と倫理
一方で、人々の胸の内を覗くと、「復讐は美しい正義」という誘惑めいた感情も潜んでいる。フィクションの世界では、法で裁けない悪人に私的制裁を加えるアンチヒーローが登場し、ある種のカタルシスを与える物語が繰り返し描かれてきた(バットマンなど)。勧善懲悪の物語は爽快かもしれない。
法治社会においては、たとえ相手が極悪非道な犯罪者であっても私刑は許されない。日本でも「悪人は法で裁かれるべきで、市民が勝手に裁いてはならない」という価値観が根強く共有されている。法による裁きは感情に流されない公平性を担保するための社会契約だ。もし個人が各々の正義感に基づいて罰を執行し始めれば、社会は報復の連鎖に陥り、弱者ほど被害を受ける危険がある。
現実にも、法の手が届かないからといって自力救済に走れば、それは正義の私物化にほかならない。例えば近年、日本ではインターネット上での誹謗中傷や個人攻撃が問題となっている。SNS上で炎上した人物に対し「正義」と称して集団で攻撃し社会的に抹殺しようとする動きは、まさに私刑的なリンチと言える。2020年、リアリティ番組(テラスハウス)出演者の木村花さんがSNSでの誹謗中傷(ネットリンチ)に耐えかねて命を絶つという痛ましい事件も起きており、匿名の集団による一方的な「断罪」がどれほど危ういかを社会に突き付けた。
人を裁こうとする前に、胸に手を当てて考えるべきだろう。私たちが抱く怒りは正義から発しているのか?それとも自分勝手な憂さ晴らしや嫉妬心・憎悪鬱憤に過ぎないのか、と。
強者の正義:勝者が描く歴史
「歴史は勝者によって書かれる」
という言葉がある。ここにも正義の一側面が表れている。戦いや競争の勝利者は、自らを正当化し称揚する物語を作り、敗者を悪と位置づけがちだ。事実、歴史叙述には**「正義は勝つ」ゆえに「勝った側が善、負けた側が悪」**とする勧善懲悪的史観が色濃く見られる。それは単なる勝敗に限らず、改革の成功者は英雄として称えられ、失敗者は無能として非難されるといった評価の差にも現れる。
しかし本当に勝者だけが常に正義で、敗者は常に悪なのか。賢者の目は歴史の裏側にも光を当てる。しばしば指摘されるのが第二次世界大戦後の戦争犯罪裁判、いわゆるニュルンベルク裁判や東京裁判の問題だ。そこでは連合国(勝者)が枢軸国(敗者)を裁いたが、勝者側の戦争行為は問われなかったことから「勝者の正義」だと批判する声も根強い。
実際、「勝者の裁き」とは敗者には過剰な罰を科し、勝者の犯した罪は不問または寛大に扱うことを指すja.wikipedia.org。この勝者と敗者でルールが違うやり方は、しばしば偽善的であり報復的正義を装った単なる復讐であって、不正義に通じると批判されている。
歴史を振り返れば、勝者が自らの都合の良い「正義」を掲げてきた例は数多い。異なる信仰を「野蛮」と断じて征服を正当化した植民地支配者たち、異端や魔女と決めつけて処刑した権力者たち…。現代においても強大な国や組織が、自らの利益を図りつつそれを「正義」の名で正当化することがある。賢者はそれを冷静に見抜く。「正義」という旗印が実は権力者の論理を隠す仮面でないか? と。
一方で、勝者が掲げる正義が全くの欺瞞ばかりとも限らないのも現実の複雑なところだ。例えば2022年、ある大国(米国)はロシアのウクライナ侵攻に対し「侵略を罰する正義」として経済制裁を主導した。その背景には自国の産業利益を守る思惑もあったと指摘されており、正義と実益を巧みに両立させているとも評されている。表向きは「悪を懲らしめる正義」を貫いているように見えても、内実は自国の得になるからこそ行動しているというわけだ。直近のトランプの動きを見ても、それは明白だろう。こうした例は、強者が唱える正義には往々にして打算や利益が絡み合っていることを示唆する。
歴史に学ぶならば、私たちは常に**「誰の立場からの正義か」**を問い直す必要があるだろう。勝者が正義を独占する社会は、弱者の声をかき消し、多様な価値観を踏みにじる危険がある。
現代社会に見る“正義”の諸相
現代に目を転じると、「正義」という言葉はメディアや政治の場でも頻繁に登場し、その解釈を巡って議論が起きている。SNSが発達した今日では、一人ひとりが情報発信者となり得る分、正義の担い手も群衆へと広がった。だがそれゆえに、群衆心理が暴走してしまう危険も顕著になっている。
インターネット上では、人々がある物語に酔いしれ、簡単に“悪者探し”を始めてしまう傾向が指摘されているtoyokeizai.net。データや冷静な事実検証を無視し、感情的なストーリーに飛びついて、「断罪ショー」を楽しんでしまうのだ。近年流行した「キャンセルカルチャー(公開批判による社会的制裁)」もその一つだろう。知性的なはずの人々でさえ、法的手続きをすっ飛ばしてこのキャンセルカルチャーという私刑を正当化してしまうことがあるのは驚くべき現象だ。これは正義というより「怒りの消費」に人々が依存しているようにも映るだろう。
現代社会には他にも「正義」の名のもとに繰り広げられる象徴的な出来事がいくつか見られる。国際政治の場面では、経済制裁や外交的制裁が「正義の鉄槌」として行われることがある。テロリズムとの戦い、独裁国家への人権非難、環境破壊企業への制裁措置——いずれも正義の実現と称される。しかし、それらの多くは同時に政治的駆け引きでもある。先述のロシアへの制裁の例に見られるように、正義の旗の影には各国の国益や思惑が必ず渦巻いている。
また、国内政治においても「世論が許さない」「社会正義に反する」といった理由で政治家や企業が糾弾され、処罰を受けるケースがある。汚職スキャンダルを起こした政治家が辞職に追い込まれるのは当然かもしれない。しかし時に、法的にはグレーな問題でも「正義」の名のもとに激しいバッシングを受け、社会的に抹殺されることも起きる。果たしてそれは健全な監視と言えるのか、それともヒステリックな魔女狩りなのか——評価は難しいが、賢者の目から見れば**「正義」に名を借りた集団心理の怖さ**がそこに潜んでいるように映る。
このように現代の「正義」は、一方で人類が長年希求してきた高貴な理念でありながら、他方でネット世論や国家権力が振りかざす諸刃の剣でもある。正義の実例を冷静に見つめることは、我々自身の正義感を見直す鏡ともなるだろう。

「正義とは」への一つの答え
ここまで共に「正義とは何か」を辿ってきた読者よ、あなたの中で何か答えは見えてきただろうか。賢者は静かに微笑み、最後にこう問いかける。
「あなたにとっての正義とは何か?」
正義は一筋縄ではいかない。勝者の裁きで見たようにそれは時に偽善の仮面となり、ダークヒーローのような激情に駆られた刃にもなり得る。視点を変えれば、正義はまるで万華鏡のように様々な色彩を帯びる。それでもなお、人々が正義を求め続けるのは、私たちがより良く生きたい、共に生きたいと願うからにほかならない。
「正義とは絶対不変の真理ではなく、対話と省察の中で形作られる一つの到達点」なのかもしれない。“共生の作法としての正義”——すなわちお互いの尊重と調和を図る姿勢こそが、その鍵ではないかと示唆する。強者の論理でもなく、憎しみに染まった復讐でもない、誰もが共に生きていくためのルール。それが理想としての正義の姿ではないか。
もちろん現実の社会では、完全な正義を実現することは難しいだろう。だが、大切なのは問い続けることだ。プラトンやアリストテレスがそうしたように、ロールズがそうしたように、そしてあなた自身らがそうするように。正義について疑問を持ち、対話を重ね、行動を省みることで、社会の正義は少しずつ磨かれていく。
最後に賢者は一つの答えを語ろう。それは決して押し付ける「答え」ではなく、一つの指針だ。「正義とは、弱き人をも照らす温かな光である」——力ある者が振りかざす剣ではなく、傷ついた者を癒やし、社会を照らす灯火であってほしいという願いである。
正義の女神が目隠しをしているのは偏見なく人を見るためであり、天秤を掲げているのは皆の声を量り取るためだ。賢者はあなたに託す。あなた自身の心の中に、その天秤と思いやりの剣を携えてほしい。そして日々の中で小さな正義を積み重ね、他者との共生の中に真の正義を見いだしてほしいと。
正義とは何か――その問いに対する答えは、これからのあなたの生き方の中にこそ現れてくるに違いない。
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