top of page

次世代ブログ

教育虐待?東大前駅事件が突きつけた日本教育の闇と歪み

  • 執筆者の写真: Renta
    Renta
  • 6 日前
  • 読了時間: 15分

2025年5月7日夜、東京都文京区の東京メトロ南北線・東大前駅で、20歳の男子大学生が刃物で切り付けられる事件が発生しました。殺人未遂容疑で現行犯逮捕された戸田佳孝容疑者(43)は、「親から教育虐待を受け、不登校になり苦労した。東大を目指す教育熱心な親たちに、度が過ぎると私のように罪を犯すことを世間に示したかった」と供述しています。



加害者が動機に挙げた「教育虐待」という言葉は、多くの人々にとって耳慣れないものかもしれません。しかしこの供述は、日本の競争的な教育環境の歪みと、それによって生じる深刻な家庭内問題に光を当てるきっかけなのかもしれません。本記事では、この歪んだ事件を糸口に、「教育虐待」とは何か、過去にどのような悲劇を生んできたのか、そしてその背景にある加害者心理や家庭・社会の要因、さらには日本の教育制度や社会構造の問題点について、多角的な視点から探っていきます。


目次


教育虐待する親と疲弊する子供

  1. 教育虐待とは何か?その定義と特徴

「教育虐待(きょういくぎゃくたい)」とは、文字通り教育の名の下に行われる虐待を意味します。児童虐待の一種であり、教育熱心な親や教師などが過度な期待を子どもに負わせ、思うような結果が出ないと厳しく叱責する行為を指しますja.wikipedia.org

例えば、子どもの人権を無視して勉強や習い事を社会通念を超えるレベルで無理強いしたり、成績が振るわないと罵倒したり体罰を与えたりすることがこれに当たります。


2011年には武蔵大学の武田信子教授が日本子ども虐待防止学会で「子どもの受忍限度を超えて勉強させるのは教育虐待にあたる」と発表し、この概念が改めて提起されました。以降、「教育虐待」という用語自体は2010年代から使われ始めましたが、実はそれ以前から過熱する受験競争の中で親や教師が子どもを追い込む行為は存在していました。高度経済成長期以降に学歴社会が到来し、「受験戦争」と呼ばれる激しい競争が始まった頃から、いわゆる「教育ママ」と呼ばれるような熱心すぎる親が子どもに過剰な勉強を強いるケースは後を絶ちませんでした。近年では勉強だけでなく習い事やスポーツなどについても行き過ぎた強要が問題視されるようになり、専門家は「子どもの心身に回復不能な苦痛を与えるほど勉強させること」とその本質を説明していますkosodatemap.gakken.jp


教育虐待の特徴として、親が「子どものため」「将来の幸せのため」と信じて行っている点が挙げられます。加害者である親自身は自らの行為を一方的に正当化しがちで、「良かれと思ってやっている」「これも愛情のうちだ」などと考えています。しかしその裏には、親が子に過剰な期待を抱いたり、自分の学歴や人生に対するコンプレックスを子どもで埋め合わせたいという思いが潜んでいるとされます。そうした過度のプレッシャーは子どもの心に深い傷を残し、複雑性PTSD(心的外傷後ストレス障害)など深刻なトラウマを負わせる恐れもあると言います。実際、教育虐待を受けた子どもが心身に不調をきたしたり、将来にわたって人間関係や自己肯定感に問題を抱えるケースは少なくありません。そればかりか、教育虐待がエスカレートした極端なケースでは親が子どもを死なせてしまったり、逆に子どもが親を殺めてしまうといった痛ましい事件に発展することすらあるのです。


とはいえ、まともな教育すら受けられない環境や家庭に生まれた人などと比すれば、どれだけ幸せな悩みなのでしょうか。


  1. 教育虐待が生んだ悲劇:過去の事件とその影響

教育虐待が背景にあったとされる事件は、これまでにも幾つか社会を震撼させてきました。ここでは、その中から代表的な事例を振り返り、その社会的影響について考えてみます。


  • 1980年「金属バット両親殺害事件

    当時20歳の浪人生(大学受験に失敗し浪人中だった予備校生)が、自宅で就寝中の両親を金属バットで殴打し死亡させた事件です。当時はまだ「教育虐待」という言葉は使われていませんでしたが、加熱する受験戦争の象徴的事件として大きな話題を呼びました。エリート志向の強い家庭で起きたこの悲劇は、「受験地獄」に疲弊した若者の追い詰められた心理が凶行に至った例として社会に衝撃を与えました。

  • 2016年「名古屋小6受験殺人事件

    名古屋市で起きた事件で、当時小学6年生で中学受験を控えていた12歳の息子に勉強を強いていた父親が、成績や態度をめぐる不満から息子を包丁で刺殺しました。父親は自らも高学歴で医師でしたが、息子が自分の期待通りに勉強しないことに業を煮やし、事件前日には息子の足を刃物で切り付けて負傷させていたとも報じられています。この事件は「毒親」による教育虐待の極致として社会に衝撃を与え、2019年の裁判で父親に懲役13年の実刑判決が下されました。幼い命を奪った痛ましい結果に、「子どものため」という名目で行われる過剰な教育への警鐘が鳴らされ、メディアでも大きく取り上げられました。

  • 2018年「目黒女児虐待死亡事件

    東京都目黒区で当時5歳の女児が死亡した事件で、両親が娘に対し毎朝早朝4時から長時間の勉強を強制し、食事も満足に与えないなど虐待を繰り返していました。女児が残していた「もうおねがい ゆるしてください」というノートの書き置きが明らかになると、国中が悲しみに包まれ、この事件を契機に児童虐待防止法の改正など子どもを守るための制度見直しが進められました。親は「しつけ」のつもりだったと供述しましたが、明らかに度を超えた教育への執着が幼い命を奪った典型例として、教育虐待の深刻さを世に知らしめる結果となりました。


これらの事件はいずれも、教育熱心さが行き過ぎた末の悲劇でした。1980年の事件は高度経済成長後の受験競争の弊害を世に知らしめ、当時社会問題化し始めていた「受験戦争」に警鐘を鳴らす契機となりました。また2016年や2018年の事件は、「エスカレートする教育熱」への世間の関心を高め、メディアでも繰り返し議論されました。2018年の目黒区の事件を受けては政府も動き出し、児童相談所の権限強化や親の指導の徹底など児童虐待防止策が強化されています。こうした悲劇は二度と繰り返してはならないものですが、それにはまず家庭内で起きている教育虐待の実態に社会が目を向け、親側も自らの行為を省みる必要があると専門家たちは訴え続けてきました。


  1. 加害者心理:何が人を追い詰めるのか

では、なぜ親の教育虐待を受けた子どもが凶行に及んでしまうことがあるのでしょうか。その背景には、被害者である子どもの心の中に蓄積された深い怒りや絶望感、歪んだ自己否定感など、複雑な心理が横たわっています。


今回の東大前駅の事件でも、容疑者は自身の経験を「親への復讐」のように位置づけ、無関係の他人を巻き込んだ無差別攻撃という形でその鬱屈した想いを爆発させましたasahi.com。親から受けた仕打ちへの怒りや報復心が、本人にも制御できない形で噴出し、社会に向けられてしまうというのです。加害者自身の言葉からも、その歪んだ心理の一端がうかがえます。戸田容疑者は「教育熱心な世間の親たちに、あまりに度が過ぎると子どもがグレて(非行に走って)私のように犯罪を犯すということを世間に示したかった」と述べています。彼にとってこの犯行は、自分を追い詰めた親や社会への皮肉的なメッセージでもあったわけです。さらに彼は「世間に自分の考えを示すことができれば、相手が死んでも死ななくてもどちらでも良かった」とも供述しており、無差別に人を傷つけることへの躊躇いよりも、自らの苦しみを訴えたい欲求の方が勝っていたことがわかります。これは極端な例ですが、教育虐待の被害者が心に抱える破壊的な衝動を示唆しています。


もっとも、教育虐待を受けた全ての人が事件を起こすわけではありません。多くの場合、親からの過度なプレッシャーに晒された子どもは、自分を責めたり無気力になったりといった内向きの反応を示しがちです。引きこもりになったり精神疾患を患ったりするケースもあり、むしろ**自己を傷つけてしまう方向(自傷行為や自殺念慮)**に進む例の方が多いとも言えるでしょう。しかし一部では、東大前駅事件や過去の金属バット事件のように、その怒りの矛先が外部に向かい、親や他者への攻撃衝動として表出してしまうことがあります。その引き金となるのは、長年蓄積された抑圧や孤立感、そして「自分は親に人生を壊された」という強烈な被害意識です。教育虐待による精神的トラウマは前述のように複雑性PTSDにつながる場合もあり、適切なケアがなされないまま成長すると、本人の中で処理しきれない感情が制御不能な形で噴出し得るのです。


さらに厄介なのは、教育虐待の加害者である親自身が自分の行為を虐待だと自覚していない場合が多いという点です。子ども側も「親は自分のためを思って言っているのだ」と半ば洗脳されたように受け止めてしまい、外部から見れば明らかな虐待行為であっても家庭内では「当たり前のしつけ」と認識されてしまうことがあります。このように、教育虐待の被害者が孤立しサポートを得られない状況もまた、心理的追い詰めを深め、最悪の場合には事件へと至る土壌を生んでしまうのです。


  1. 家庭環境と社会的要因の相関関係

教育虐待は家庭内で行われる問題ですが、その背景には親子関係のみならず広い社会的要因が複雑に絡み合っています。まず家庭環境の側面から見ると、どのような家庭でも教育虐待が起こり得ることが指摘されています。高学歴で経済的・社会的地位の高い両親の家庭で起きる場合が多い一方で、逆に低学歴の親が自らの劣等感(学歴コンプレックス)から子どもを過酷な勉強や受験競争に駆り立てるケースもあります。


つまり、社会的地位の高低にかかわらず、親が子どもの学業成績に強い執着や不安を抱く家庭では教育虐待のリスクが生じ得るのです。また、日本ではこれまで「教育ママ」という言葉が示すように、母親が熱心に子どもを勉強させる姿がクローズアップされがちでした。しかし実際には父親や両親ともに教育虐待に加担する場合が多いことも分かっています。父親が仕事で忙しく母親が教育を一任されているケースでも、父親が結果を厳しく評価するプレッシャーを与えていたり、逆に父親の期待に応えようと母親がエスカレートしてしまったりするなど、家庭内で双方が関与している例が少なくありません。家庭全体が成績至上主義に染まってしまい、子どもの人格や意思よりも点数や偏差値が尊重される空気ができあがると、親の言動もエスカレートしがちです。


親側の心理として見逃せないのは、親自身の不安や焦燥感が教育虐待を誘発している側面です。現代は先行き不透明な時代と言われ、経済状況や社会情勢の変化によって「良い大学に入って安定した職に就く」というかつての成功パターンが揺らぎつつあります。そのような中、親は「このままで大丈夫だろうか」「しっかり教育しないと子どもが将来困るのではないか」といった強い危機感を抱えています。教育ジャーナリストのおおたとしまさ氏は、「先行きの不透明さが増す中、親が『大丈夫? 本当にそれで大丈夫?』と子どもに不安を投影しているように見える」と述べ、親が自らの不安ゆえに子どもを追い立ててしまう現状を指摘していますsukusuku.tokyo-np.co.jp

実際、「子どもの成績が悪いのは親である自分の責任だ」と思い詰める親も多く、そうした親ほど我が子に過干渉になりやすいとも言われます。さらに、親は自分の行為を「愛情」や「しつけ」と信じ込みがちであるため、悪意なく行われる虐待という側面もあります。先に述べたように、加害者である親も被害者である子もそれを「虐待」とは認識していないケースすらあるのです。親は子どものためと思ってしている行為なので周囲に相談したりブレーキをかけたりする機会もなく、エスカレートしやすい傾向があります。

例えば「あなたの将来のため」「良い大学に入れないと幸せになれない」といった言葉で子どもを追い詰め、その苦しみに気付かない親は少なくありません。こうした家庭内コミュニケーションの歪みは、子どもにとって逃げ場のない閉鎖空間となり、結果的に追いつめられた子どもが心を病んでしまったり、前章で見たような破滅的行動に走ってしまったりする要因となります。


要するに、家庭環境において親の過剰な期待や不安、価値観の偏りが教育虐待の火種となり、それを助長する社会的要因が周囲に存在することで問題は深刻化するのです。では、その社会的要因とは具体的にどのようなものなのでしょうか。


  1. 日本の教育制度と社会構造がもたらす圧力

教育虐待の問題を考える上で、日本の教育制度や社会構造そのものが親子に与える圧力を無視することはできません。日本は長らく学歴社会と称され、良い大学を出ることが良い会社・安定した将来に直結すると信じられてきました(現在も、多くの職種では高卒以上が最低条件です)。

実際、企業の新卒採用や社会的評価において学歴が重視される傾向は根強く残っており、「一流大学に入ること」が多くの家庭で目標とされてきました。東京大学(東大)はその筆頭であり、「子どもを東大に入れたい」という親の願いは一種のステータスとなっています。今回の事件で容疑者が駅名に「東大」のつく場所を狙い、「世間の人たちが教育虐待を連想しやすい」と踏んだのも、東大が日本の受験競争の象徴だからに他なりません。


受験制度にも大きなプレッシャーの要因があります。日本では中学・高校・大学と、主な進学段階で厳しい入学試験が課され、その一発勝負の結果で進路が大きく左右されます。特に高校受験や大学受験は「人生の分岐点」と位置づけられることが多く、親子ともに必死になるのは無理もない側面があります。


しかし近年では、こうした競争がさらに低年齢化している点が問題視されています。いわゆる「お受験」と呼ばれる幼稚園や小学校への受験熱も高まり、1980年代には大学受験が主戦場だった競争が、21世紀の現在では小学校や幼稚園入試にまで低年齢化が進んでいる状況です。子どもが幼いうちから受験塾やお稽古事に通わせ、「少しでも有利な進路を」と願う親が増えたことも、教育虐待が起こり得る土壌を広げていると言えるでしょう。

さらに、「中学受験は親の受験」とも言われるように、特に首都圏では中学校受験の段階で親同士の競争やプレッシャーが非常に強くなっています。難関私立中学に子どもを入れれば将来の大学受験が有利になる、あるいは周囲から評価されるといった思惑から、親たちが情報戦や過熱したサポート合戦を繰り広げるケースもあります。そうした環境下では、親は自分が試験を受けるかのように精神的に追い詰められ、それが結局は子どもへの過剰な干渉・強制となって表れるのです。


日本の学校教育自体にも課題はあります。例えば画一的なカリキュラムや偏差値偏重の評価制度は、子ども一人ひとりの個性や多様な才能を伸ばすよりも潰し、テストで良い点を取ることや受験に合格することを重視してきました。そうした中で、どうしても学業が苦手な子や他分野に秀でた子までもが「勉強ができなければ価値がない」という誤った自己認識を持ってしまう恐れがあります。親もまた、「勉強さえできれば幸せになれる」という単純化した価値観に囚われがちで、それ以外の幸せの形やキャリアパスが見えにくくなっています。社会全体として、学歴や偏差値以外の多様な成功モデルを認める風潮が弱いことが、親の不安を増幅させ、教育虐待的な行為へと駆り立てる背景にあると言えるでしょう。

もう一つ見逃せないのは、教育虐待への社会的な認識と支援体制です。従来、虐待と言えば身体的暴力やネグレクト(育児放棄)などが注目され、教育熱心すぎる行為は「虐待」とは見なされにくい傾向がありました。しかし近年、児童相談所などに寄せられる児童虐待の相談件数は急増しており、過去20年で約70倍にも達しています。その中で心理的虐待が全体の3分の1を占めるまでに至り、「過重な勉強や受験プレッシャーも本来の意味での児童虐待に当てはまるのではないか」と指摘する専門家も現れましたstyle.nikkei.com


実際、2023年度の児童相談所への児童虐待相談対応件数は過去最多を記録し、その要因の一つとして**心理的虐待(言葉の暴力や過度のプレッシャー)**の増加が挙げられています。武蔵野大学の舞田敏彦氏は「子どもへの過重な勉強の強制も立派な虐待である」と強調しており、社会としても教育虐待を明確に虐待の一種と認識し、対処すべき段階に来ていると言えるでしょう。


『教育虐待』に嘆く子供と、まともな教育すら受けられない貧困の渦中にいる子供の対比

  1. おわりに〜問題解決に向けて

東大前駅で起きた事件は、「教育虐待」という問題の深刻さを世に知らしめました。加害者の歪んだ動機は決して許されるものではありませんが、その背景にある問題に目を向けることは、同様の悲劇を防ぐために重要です。教育虐待は家庭内の問題であると同時に、日本社会全体が抱える構造的な歪みの反映でもあります。子どもの幸せと成長を第一に考えるならば、私たちは教育の本来の意義を改めて問い直す必要があるでしょう。子どもにとって何が本当に大切か、親が与えるべきは愛情と支援であって過剰なプレッシャーではないことを、社会全体で共有していくことが求められています。


専門家たちは、教育虐待を防ぐには親への支援と啓発が不可欠だと指摘します。親自身が自らの不安や期待と適切に向き合い、子どもの個性やペースを尊重する余裕を持てるよう、地域や学校での子育て支援やカウンセリング体制を充実させることが望まれます。また、子ども側へのケアも重要です。もし自分が親からの過度なプレッシャーに苦しんでいると感じたら、学校の先生や信頼できる大人に相談する勇気を持ってほしいと専門家は呼び掛けています。一人で抱え込まず周囲が適切に介入できれば、悲劇は未然に防げるかもしれません。


教育とは本来、子どもの可能性を伸ばし幸せな人生を送る手助けをするためのものです。しかし「子どものため」と言いながら、その実態が子どもを追い詰め不幸にしてしまっては本末転倒です。今回の事件を教訓に、社会全体で教育虐待という問題を直視し、子どもたちが安心して健やかに育つ環境づくりに取り組む契機としなければなりません。教育の名のもとに子どもたちの笑顔が奪われることのないよう、大人一人ひとりが責任を持って行動していくことが求められているのです。

Comments


bottom of page