【現実との矛盾】アッラーとは?イスラム教の絶対神〜戦争・99の属性・信仰の深層
- Renta
- 7 日前
- 読了時間: 18分
「アッラー」
この言葉を聞いて、あなたはどんなイメージを持ちますか?ニュースで報じられる遠い国の紛争や、過激な思想を持つ人々の姿と結びつけて、「なんだか怖い神様?」「もしかして、戦争を命じたりするの?」そんな風に、少しネガティブな印象や、誤解を抱いている方もいるかもしれません。しかし、世界に18億人以上いると言われるイスラム教徒(ムスリム)にとって、「アッラー」は、日々の生活の中心であり、信仰の対象であり、そして愛と慈悲の源です。この記事では、そんな**『アッラーとは』**一体どのような存在なのか、多くの人が抱く疑問や、時には誤解されがちなポイントについて、イスラム教の教えに基づいて、分かりやすく、そして深く掘り下げて解説していきます。
アッラーについての正しい知識は、国際社会や異文化を理解する上で、きっとあなたの視野を広げてくれるはずです。

目次
『アッラー』の意味とイスラム教の「たった一つの大原則」
まず、「アッラー」という言葉そのものについて、そしてイスラム教の最も基本的な考え方から見ていきましょう。
「アッラー(Allah)」は特別な神様の名前?
実は、「アッラー」という言葉は、アラビア語で**「唯一絶対の神」**を意味する普通名詞に近い言葉です。特定の神様の「固有名詞」というよりは、「The God(ザ・ゴッド)」、つまり「あらゆる神々を超越した、ただひとりの本当の神」というニュアンスが強いのです。 言語学的には、アラビア語で一般的に「神」を意味する「イラーフ(ilah)」に、英語の「The」にあたる定冠詞「アル(al-)」がくっついて、「アル・イラーフ」となり、それが融合して「アッラー」という発音になったと考えられています。この定冠詞が付いていることが、「特定の、そして唯一の」神であることを強調しているんですね。 (ちなみに、アラビア語を話すキリスト教徒やユダヤ教徒も、自分たちの信仰する唯一神を指して「アッラー」と呼ぶことがあります。)
イスラム教の心臓部!「タウヒード(神の唯一性の強調)」とは?
イスラム教の教えの中で、最も重要で、絶対に譲れない大原則、それが**「タウヒード(Tawhid)」です。これは、「アッラーは完全に唯一無二の存在であり、絶対に分けられない」**という考え方です。 具体的には、
アッラーには、いかなるパートナーも、同等の力を持つ存在もいない。
アッラーには、子供も、親もいない。
アッラーと人間の間に、神性を分け与えられた仲介者(聖職者や聖人など)は存在しない。 ということです。アッラーこそが、この宇宙の唯一の創造主であり、宇宙を維持し、支配するただひとりの存在。人間を含む全てのものはアッラーによって創られ、アッラーに完全に依存している、と考えます。
「アッラーの他に神なし」という信仰告白
この「タウヒード」の精神は、イスラム教徒が毎日唱える信仰告白**「シャハーダ」の最初の部分、「ラー・イラーハ・イッラッラー(Lā ilāha illā Allāh)」という言葉に集約されています。これは、「アッラーの他に、真に崇拝されるべき神は存在しない」**という意味です。
なぜ「唯一」であることにそこまでこだわるのか?
イスラム教では、アッラー以外の何か(例えば、人間、自然物、偶像、あるいは金銭や権力といった価値観)を、アッラーと同等かそれ以上に見なしたり、崇拝したりすることを**「シルク(Shirk)」**と呼び、最も重い罪だと考えます。なぜなら、それは唯一絶対であるべきアッラーの神聖さを汚し、人間を真の幸福から遠ざける行為だとされるからです。聖典クルアーンにも、「アッラーは三位一体(キリスト教の教義)の一つであると言う者は不信心者だ。唯一の神の他に神はいない」といった、タウヒードの厳格さを示す記述があります。
この「タウヒード」という徹底した一神教の考え方は、イスラム教徒の世界観、倫理観、そして何に最終的な忠誠を誓うべきか、という生き方の根幹を形作っています。
アッラーはどんな神様?「99の美しい名前」が示す優しさと厳しさ
「唯一絶対の神」と言われても、なんだか遠くて、掴みどころがないように感じるかもしれませんね。そこでイスラム教では、アッラーの神聖な本質の一端を、人間が少しでも理解できるように、**「アル=アズマー・アル=フスナ(最も美しい名前)」**と呼ばれる、**99の「属性(神様の性質や特徴)」**を通して語ります。これらは99人の別の神様がいるという意味ではなく、唯一なるアッラーが持つ、多様な素晴らしい側面を表しているのです。
これらの「名前(属性)」は、イスラム教徒が祈りの中で呼びかけたり、日々の生活で思い起こしたりすることで、アッラーをより身近に感じ、その導きに従おうとするための大切な手がかりとなります。いくつか代表的なものを見てみましょう。
「慈悲」と「慈愛」が基本!
99の属性の中でも、特に重要で、最初に呼び求められるのが、**「アッ=ラフマーン(遍く慈悲深き御方)」と「アッ=ラヒーム(特に慈愛深き御方)」**です。イスラム教では、アッラーの慈悲は、その怒りにさえ先立つと教えられており、万物を包み込む広大なものであるとされています。この「慈悲」こそが、アッラーの最も基本的な性質だと理解することが大切です。
「公正」と「裁き」も重要
「アル=アドゥル(公正なる御方)」や「アル=ハカム(裁きを下す御方)」といった属性は、アッラーが完全に公正であり、その判断や定めは常に賢明であることを示します。人間が行った全ての善行も悪行も、アッラーは全て見ており、最後の審判の日には公正な裁きが下される、と信じられています。
「全知全能」の創造主
「アル=カーディル(全能なる御方)」や「アル=アリーム(全知なる御方)」は、アッラーがこの世界の全てを創造し、維持し、そして過去・現在・未来の全てを知り尽くしている、超越的な力を持つ存在であることを表します。
「平和」と「保護」を与えてくれる
「アッ=サラーム(平和の源なる御方)」や「アル=ムウミン(安全と信仰を与える御方)」、**「アル=ムハイミン(全てを守護する御方)」**といった属性は、アッラーが私たちに安らぎと安全、そして心の平和を与えてくれる存在であることを示しています。
何度でも「赦してくれる」寛大さ
人間は過ちを犯す弱い存在ですが、アッラーは**「アル=ガッファール(しばしば赦す御方)」や「アッ=タッワーブ(心からの悔い改めを受け入れる御方)」**でもあります。どんな罪を犯したとしても、誠心誠意悔い改め、アッラーに立ち返るならば、その赦しは常に開かれている、と教えられています。
【殺戮マシンのような神】
とはいえ、ニュースなどでイスラム過激派の行動と結びつけて、「アッラーは怖い神様」「暴力的な神様」というイメージを持つ方がいるかもしれません。確かに、99の属性の中には、**「アル=ジャッバール(強制する御方)」や「アル=ムンタキム(正当な報復をする御方)」**といった、力強さや厳しさを示すものもあります。
しかしこれらの属性は、アッラーの完全な「公正」と「叡智」の範囲内で理解されるべきものであり、決して人間のような気まぐれな怒りや、無差別な暴力、理不尽な破壊を肯定するものではありません。 そして何よりも、**「わが慈悲は、わが怒りに優る」という預言者ムハンマドに伝えられたアッラーの言葉(ハディース・クドゥスィー)が示すように、アッラーの根本は「慈悲」**にある、というのがイスラム教の最も大切な教えです。
この「慈悲と公正」「優しさと厳しさ」といった、一見相反するように見える属性のバランスを理解することが、アッラーという神の多面的で奥深い性格を捉える上で、非常に重要になります。「殺戮マシン」や「悪魔のような」といったイメージは、この豊かな神理解からは、本来程遠いものなのです(現実とは矛盾していますが)。

【なぜアッラーの「姿」を描かないの?】
イスラム教では、アッラーの姿を絵や彫刻で表現することは固く禁じられています。これは、唯一絶対であるアッラーを、人間の作った具体的な形で限定したり、人間と同じように考えてしまったりすることを防ぎ、「タウヒード(神の唯一性)」の純粋さを守るためとされています。物理的なイメージの代わりに、これらの「99の美しい名前(属性)」を通して、人間はアッラーの性質を理解し、感じようとするのです。
つまり、AIで『アッラー』を生成した私は、イスラム教の禁忌を犯している事になりますね(笑)。

アッラーのメッセージはどこに?聖典『クルアーン』と預言者ムハンマド
では、アッラーの意志や教えは、どのように人々に伝えられているのでしょうか?イスラム教徒にとって、その最も重要な源泉が、聖典**『クルアーン(Qur'an)』と、預言者ムハンマドの言行録である「スンナ(Sunnah)」**です。
聖典『クルアーン』とは?
イスラム教徒は、クルアーンを、**アッラーから天使ジブリール(キリスト教でいうガブリエル)を通じて、最後の預言者であるムハンマドに啓示された、「アッラーの言葉そのもの」**であると信じています。それは、人間が書いたものではなく、創造される以前から存在する、神聖で完璧な「神のメッセージ」だと考えられているのです。全114章からなるクルアーンには、アッラーの唯一性、宇宙の創造、過去の預言者たちの物語、人間が従うべき道徳や法律、そして最後の審判と来世についてなど、あらゆる事柄が記されているとされます。クルアーンは、イスラム教徒の信仰と生活のあらゆる場面における、最高の権威を持つ指針です。
「スンナ」(預言者ムハンマドの言行録)とは?
クルアーンが「神の言葉」であるのに対し、スンナは、**預言者ムハンマドが実際にどのように生き、何を語り、何を行ったかという「模範的な実践」を記録したものです。これは主に「ハディース」**と呼ばれる、ムハンマドの言行に関する伝承集にまとめられています。 スンナは、クルアーンの教えを具体的にどう解釈し、日常生活でどう実践すればよいかを示す、クルアーンを補完する重要な手引きとされています。例えば、クルアーンで「礼拝をしなさい」と命じられていても、その具体的なやり方(回数や動作など)は、スンナを通じて伝えられています。
なぜこれらが大切なのか?
イスラム教徒にとって、アッラーは直接人間の前に姿を現したり、語りかけたりするわけではありません。アッラーの意志や導きは、これらの**「啓示された言葉(クルアーン)」と「預言者の模範(スンナ)」**を通じてのみ、正確に知ることができる、と考えられています。これらが、アッラーと人間を繋ぐ、最も重要な「道しるべ」なのです。
クルアーンが「アッラーの言葉そのもの」であるという強い信仰は、イスラム教徒がクルアーンの言葉を非常に大切にし、その意味を深く学ぼうとする理由です。そして、クルアーンの教えから逸脱したり、それを自分勝手に解釈したりすること(特に過激派などによる歪曲)は、主流のイスラム教徒からは厳しく批判されるのです。

なぜイスラム教徒はアッラーを信じ祈るのか?信仰の動機と心の平安
世界には多くの宗教がありますが、イスラム教徒はなぜ、唯一神アッラーを信じ、日々の礼拝(サラート)などの崇拝行為を行うのでしょうか?そこには、単なる義務感や習慣を超えた、様々な動機と意味が込められています。
「服従」だけじゃない!「崇拝(イバーダ)」の本当の意味
「イスラーム(Islam)」という言葉自体が、アラビア語で**「(神への)服従、帰依」**を意味します。イスラム教徒(ムスリム)とは、「アッラーに自らの意志を服従させる者」という意味です。しかしこの「服従」は、決して誰かに強制されたり、奴隷のように盲目的に従ったりすることを意味するのではありません。むしろ、宇宙の創造主であり、全ての善の源であるアッラーの意志に自らを合わせることで、人間本来のあり方に戻り、真の心の平和(サキーナ)と人生の目的を見出すことができる、と考えるのです。そして、イスラム教における「崇拝(イバーダ)」とは、単にモスクで祈りを捧げることだけを指すのではありません。アッラーを意識し、その喜ばれることを願いながら行う、日常生活における全ての善い行い(例えば、正直であること、親切であること、困っている人を助けること、真面目に働くことなど)が、崇拝行為となり得ると教えられています。
生まれながらの「神様を求める心」(フィトラ)
イスラム教では、人間は生まれながらにして、創造主であるアッラーを認識し、その存在を感じ、崇拝しようとする清らかな本性(フィトラ)を持っている、と考えられています。イスラムの教えは、この人間本来のフィトラに合致するものであり、信仰とは、外部から何かを植え付けられる「洗脳」のようなものではなく、むしろ自分自身の内なる声に目覚め、本来の姿に立ち返るプロセスだと捉えられています。
感謝・安心感・そして人生の目的
イスラム教徒がアッラーを崇拝する動機は様々ですが、主なものとしては、
アッラーから与えられた全ての恵み(命、健康、家族、自然など)に対する深い感謝(シュクル)の気持ち。
唯一絶対の神に全てを委ねることで得られる、究極の安心感と心の平安。
人生における明確な目的意識と、生きる上での道徳的な指針が得られること。
日々の祈りや善行を通じて、アッラーとの精神的な繋がりを感じ、より高潔な自分へと成長したいという願い。
そして、この世での務めを果たした後、来世においてアッラーからの報奨(楽園)を得たいという希望。 などがあります。
信仰と「理性」は矛盾しない!「知ること」を奨励する教え
「宗教は盲目的なもの」「信仰は理性を捨てること」といったイメージを持つ方がいるかもしれませんが、イスラム教は、実は**「知識(イルム)」を非常に重視し、理性(アクル)を使って物事を深く考え、探求することを奨励しています。聖典クルアーンの中には、繰り返し「あなたがたは考えないのか」「よく観察しなさい」といった、人々の知性に訴えかける言葉が登場します。 歴史的に見ても、イスラム文明は、哲学、数学、天文学、医学といった様々な学問分野で、かつて世界の知的発展をリードした時代がありました。したがって、イスラム教における信仰(イーマーン)とは、決して「洗脳」や「思考停止」ではなく、むしろ理性的な探求と、心からの納得に基づいた確信**であるべきもの、とされています。
イスラム教徒にとって、アッラーへの信仰と崇拝は、人生に意味を与え、困難な時には支えとなり、そして最終的な救済へと導いてくれる、かけがえのない道しるべなのです。
【重要】アッラーは戦争を望む?「ジハード」の本当の意味と過激派による歪曲
ニュースなどで「ジハード」という言葉を聞くと、すぐに「イスラム教の聖戦」といった、暴力的で攻撃的なイメージを思い浮かべる人も少なくないでしょう。そして、それと結びつけて「アッラーは戦争を好む神なのか?」という疑問を抱くかもしれません。
しかし、これは**「ジハード」という言葉の、最も大きな誤解の一つ**です。
「ジハード」の本当の意味は「努力・奮闘」
「ジハード(Jihad)」というアラビア語の本来の意味は、**「(神の道のために)努力すること、奮闘すること」**であり、必ずしも武力闘争だけを指すわけではありません。イスラムの教えを守り、より良い人間になろうと日々努力すること、社会の不正と戦うこと、学問に励むこと…これら全てが、広い意味での「ジハード」に含まれるのです。
最も大切なのは「内なる戦い」【大ジハード vs 小ジハード】
イスラムの伝統では、ジハードは主に二つの種類に分けられています。
大ジハード(内的なジハード): これが最も重要で、より困難なジハードとされています。それは、自分自身の心の中にある**エゴ(私利私欲)、怠惰さ、怒り、嫉妬といった悪い傾向と戦い、自己を浄化し、精神的に向上しようとする「内なる努力」**のことです。
小ジハード(外的なジハード): こちらが、時に「戦争」を含む可能性のある、外的な努力や行動を指します。しかし、これには非常に厳格な条件と倫理規定が伴います。
戦争(小ジハード/キタール)が許される?
イスラム教では、人命は極めて尊いものとされており、戦争(武力行使)は、やむを得ない場合の最終手段としてのみ、極めて限定的に許容されるにすぎません。そして、その際には以下のような厳しい条件が課せられます。
自衛のため:不当な侵略や攻撃を受けた場合に、自分たちの命や信仰、共同体を守るための防衛戦争。
抑圧された人々を救うため:明らかに不正な支配や迫害に苦しむ人々を解放するための戦い。
侵略は絶対に禁止!:イスラム教は、理由なく他国を侵略したり、先に攻撃を仕掛けたりすることを明確に禁じています。クルアーンにも「あなたがたに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦え。だが侵略的であってはならない。アッラーは侵略者を愛さない」とあります。
非戦闘員(女性、子供、老人、聖職者など)は絶対に攻撃してはならない。
農作物やインフラを不必要に破壊してはならない。
正当な権威(国家など)によって宣言されなければならない(個人や一団体の判断で勝手に行うことは許されない)。
もし敵が和平を望むなら、それに応じなければならない。
イスラム過激派による「教えの歪曲」を許すな!
アル=カーイダやISIL(イスラーム国)といったイスラム過激派グループは、これらのイスラム教の本来の教えを意図的に無視・歪曲し、「ジハード」という言葉を自分たちの暴力行為やテロリズムを正当化するために悪用しています。彼らは、クルアーンやハディースの言葉を文脈から切り離して、自分たちに都合の良いように解釈し、無関係な民間人の殺害や、イスラム教徒同士の殺し合い(「タクフィール」という、自分たちと意見の異なるイスラム教徒を「不信仰者だ!」と一方的に断罪する危険な思想)さえも正当化しようとします。しかし、これはイスラム教全体の教えを代表するものでは決してありません。世界中の大多数のイスラム学者や指導者たちは、このような過激派の思想と行動を、**「イスラムの教えに反する、許されざるもの」**として、明確に非難・拒絶しています。
アッラーが命じるのは、無差別な殺戮や憎悪の拡大ではありません。むしろ、**正義、慈悲、そして平和の実現のための「努力(ジハード)」**なのです。この「ジハード」の本来の意味と、過激派による悪用・歪曲とを、私たちは明確に区別して理解する必要があります。
アッラーと他の宗教の「神様」はどう違う?ヒンドゥー教との違い
「アッラー」という唯一絶対の神の概念は、他の宗教、例えば多くの神々が登場するヒンドゥー教(印パ戦争の根源)の神様観とは、どのように異なるのでしょうか?比較することで、アッラーのユニークな特徴がより鮮明になります。
神学的ポイント | イスラム教(アッラー) | ヒンドゥー教(代表的な考え方) |
神様の数・本質 | 唯一絶対の、人格を持つ創造主アッラーのみ。パートナーも子も同等者もなし(タウヒード)。アッラーは被造物とは完全に異なる超越的な存在。 | 究極的には「ブラフマン」という非人格的で宇宙全体に遍在する絶対的な実在がある。ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァといった主要な人格神や、無数の神々(デーヴァ・デーヴィー)は、そのブラフマンの多様な現れや側面、あるいはそれ自体が力を持つ存在と解釈される。 |
神様の姿・形 | 姿形はなく、いかなる物理的な描写も禁止。偶像崇拝は最大の罪(シルク)。 | 神々は多様な姿(人間、動物、あるいは両者の混合など)で描かれ、**ムルティ(神像や絵画)**を用いた礼拝が一般的。像は神そのものではなく、神性を感じるための「媒体」と見なされる。 |
神様と人間の関係 | アッラーは創造主、人間は被造物であり、アッラーに「服従」し崇拝する。預言者を通じてアッラーの言葉(啓示)が伝えられる。 | 人間はブラフマンの一部(梵我一如)であり、解脱(モークシャ)を目指す。神々は人間の祈りに応え、恩恵を与える存在。神の化身(アヴァターラ)として神が地上に現れることもある。 |
聖典 | 『クルアーン』が唯一絶対の、神から直接啓示された言葉。預言者ムハンマドの言行(スンナ)がそれを補う。 | ヴェーダ、ウパニシャッド哲学、叙事詩(マハーバーラタ、ラーマーヤナ)、プラーナ文献など、膨大で多様な聖典群が存在する。 |
このように、イスラム教のアッラーは、**「徹底した唯一性」と「超越性(人間や自然とは全く異なる次元の存在であること)」、そして「人格神(意志や言葉を持つ)」**という点が、ヒンドゥー教の神様観(全ては究極的実在ブラフマンの現れであり、多様な神々がそれぞれの役割を持つ)とは大きく異なります。
こうした神様観の違いが、それぞれの宗教の儀礼のあり方(偶像崇拝の有無など)や、世界観、救済への道筋の考え方にも影響を与えているのです。(※インドとパキスタンの紛争では、これらの宗教的アイデンティティが政治的に利用され、対立を深める一因となっている側面もあります。しかし、それは宗教の教えそのものが対立を命じているのではなく、人間が宗教を政治的な道具として使ってしまう、という問題です。)

結論:『アッラー』を理解するために
『アッラーとは』何か?この壮大で、時に誤解されやすい問いに対して、この記事では様々な角度から光を当ててきました。イスラム教徒にとってアッラーは、
宇宙と全ての生命の、唯一絶対の創造主であり、支配者(タウヒード)。
「99の美しい名前」で呼ばれる、慈悲、公正、平和、赦しといった多様な属性を持つ、人格的な神。 (「殺戮マシン」のようなイメージは、その一面的な、あるいは歪曲された理解です)
聖典『クルアーン』を通じて、最後の預言者ムハンマドに最終的なメッセージを啓示した存在。
日々の生活の中で、感謝と畏敬の念を持って崇拝し、その導きに従うことで、心の平安と人生の目的を与えてくれる存在。
そして、イスラム教の教えの中心には「戦争や暴力を無差別に肯定する」ような思想は本来存在しません。「ジハード」の本当の意味は、平和を求める内面的な努力であり、武力行使は極めて限定的な状況下で、厳格な倫理規定に基づいてのみ許容されるものです。残念ながら、一部の過激なグループが、これらの教えを自分たちの都合の良いように歪曲し、テロリズムや暴力を正当化するために「アッラー」や「ジハード」の名を悪用しているという、悲しい現実があります。しかし、それはイスラム教全体の姿を代表するものでは決してありません。
アッラーという神概念、そしてイスラム教という宗教は、非常に奥深く、豊かな精神性と、長い歴史の中で培われた知恵を持っています。ニュースなどで伝えられる断片的な情報や、一部の過激な人々の行動だけで全体を判断してしまうのではなく、その本来の教えや、大多数の平和を愛するイスラム教徒たちの信仰の姿に目を向けることが、誤解を解き、異文化理解を深めるための第一歩となるでしょう。この記事が、あなたが『アッラーとは』何かについて、よりバランスの取れた、そして深い理解を得るための一助となれば幸いです。
Comments